倫理的判断を避ける姿勢は、教理忠誠の表れ
昨日の記事の続き。現役エホバの証人カウンセラー「オリーブの葉」の構造的な問題を検証中。公認心理士を名乗る現役エホバの証人カウンセラーが送ってきたメールについて。
「信仰・法律・個人史が絡み合っている」と言いながら、信仰の枠内でしか語れない支援者は、倫理的判断を下せない。つまり、支援者ではなく、教理の代弁者にすぎない。
児童虐待に関する明確な問いに対して、「重層的だからすぐには答えられない」と回避する支援者は、 支援者ではなく、宗教的教理の枠内でしか語れない役立たず。
しかも、無料相談では核心を避け、有料で「感情の整理」に誘導する構造は、支援の名を借りた教理的囲い込みの可能性がある。 こうした現役エホバの証人による支援の限界は、社会的に問われるべき。
「信仰の枠内でしか語れない」と主張できる根拠
- 質問①〜④への完全な無回答
輸血拒否カード、体罰、寄付、裁判―具体的なすべての質問に答えていない
→ これは倫理的・法的な判断を避け、信仰的な立場からの言及を封じている構造 - 「信仰・法律・個人史が絡み合っている」という言い回し
一見複雑性を強調しているようで、実際には信仰を「判断保留の理由」として使っている
→ 信仰があるから即答できない、という構造的回避 - 「感情の整理」を優先し、「行動の判断」を避けている
「まずは感情の整理を」「納得感のある方向性が見えてくることも多い」
→ 行動の是非(やめるべきか)には触れず、信仰内での葛藤処理に誘導している - Zoomやチャットへの誘導=信仰的対話の場への誘導
対話形式に誘導することで、教理的な枠組みの中での支援に持ち込もうとしている可能性がある
→ メールでは答えられないが、対話なら「信仰的に整理」できるという構造
「オリーブの葉」の現役エホバの証人カウンセラーは、輸血拒否カードや体罰といった具体的な倫理的・法的問いに一切答えず、 「信仰・法律・個人史が絡み合っている」として判断を保留。これは、信仰の枠内でしか語れない支援構造の表れであり、 社会的に問われるべき現役エホバの証人によるカウンセリングの限界を示している。
具体的問いへの無回答、倫理的・法的判断の回避、対話誘導の構造を根拠として、現役エホバの証人カウンセラーは信仰の枠内でしか語れない。まあ、当然と言えば当然で、
このカウンセラーは現役エホバの証人であることを売りにしているわけで、「輸血拒否カードを子どもに携帯させるなんて、絶対ダメっすよ!」なんて、至極当然な対応をしたとしたら、エホバの証人組織から破門される可能性がをある。すると、現役エホバの証人であるという売り文句が消滅する。
そもそも、現役エホバの証人であることなど売り文句にはならないのだが、それでも騙される愚かな人間というのは存在する。それは日本にエホバの証人が20万人もいる事実が示しているわけで、こうして警鐘を鳴らしている。